大好きな物語について語る時に使いたくない言葉

 「ヤンデレ」という言葉を聞くたび、新井素子ひとめあなたに…』(角川文庫)のあとがきを思い出します。

 どこか普通でない女の子や女が、おいつめられておいつめられて狂うのって――好きなんですよね、書くの。(ま、大概やたらと暗くなっちゃうので、あんまり書きませんが)何ていうのかな、狂ってゆく女って、情景として異様にきれいな気がするんです。あと、屈折、ね。屈折した愛情、屈折した憎悪、屈折した反抗心が、屈折しすぎたが故にもう何がなにやら訳わかんなくなっちゃって……って、好きだなあ。特に、屈折しすぎて、もう、ほとんど狂気の世界においこまれて――で、じわじわ狂っていく女の子って、書くの好きだし、きれいだと思うんですよね。

 で、ずーっと、「ヤンデレ」という言葉を新井素子の書く女の子に当てはめるのは適切かどうか、と考えていたのですが。……「適切かどうか」以前に、わたしはそれを「当てはめたくない」ことに気づきました。

 「ヤンデレ」も、「ツンデレ」もそうだけれど、元々はゲームやアニメのキャラクターに使われてた言葉ですよね。でも、「キャラクター」自体やその行動や性格を指し示す言葉なのだから、小説などにも適用できる。それで思い出すのが、Dainさんの「ツンデレ小説ベスト」です。中学生の時に読んだ『春琴抄』や、大好きな荻原規子西の善き魔女」シリーズが「キャラがツンデレ」という視点から語られていたことにものっすごい衝撃を受けたのでした。それらの作品をそういう視点から見たことがなかったので。おもしろいと思う一方で、ちょっともやもやした抵抗感みたいなものも残ったのでした。特に荻原規子作品には、思い入れがあるので。「ツンデレ」といった軽い感じの言葉を適用してほしくない……と言いたいような(もちろん、人に強制できることではないけれど)。

 元々「ツンデレ」「ヤンデレ」という言葉を適用されてこなかった作品に、そういう言葉を当てはめてみる、その「縛り」を使ってみるという語り方はおもしろいので、自分以外の人がそういう方法で語っていたら、ついつい興味を引かれてしまいます。

 でも、わたしは大好きな物語について語る際に、それを使いたくないのでした。使わずに語る方法をとりたい。


 ……た、ただ今日考えたことを記録しておくつもりで書き始めたのに、なんか決意表明みたいになってしまった。