「ブス」への救い
- 作者: 橋本治
- 出版社/メーカー: 新潮社
- 発売日: 2007/03
- メディア: 文庫
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そして、「個性」というものが「一般的なものからはみ出したもの」であるのなら、「ブス」は個性なのである。しかし、「ブスは個性だ」と言われて喜ぶ女だって、一人もいないだろう。それを言われて安心する女だって。
「ブス」と言われて傷ついた女の子に、「いいじゃないか、それが個性なんだから」と言っても、救いにはならない。「気にするんじゃない」と言っても救いにはならない。「ブス」と言われた女の子は、そのことによって、「ブス」という救いのない一般性の中に放り込まれているだけなのだ。「ブス」と言われて傷ついた女の子には、「どうして?愛嬌のある顔してるのに」とか、「どうして? 意志的なしっかりしたいい顔してるのに」と言ってやらなければ、救いにはならない。それを言われて、女の子は「やっぱり自分は美人じゃないんだ」と思うかもしれない。その点では、やっぱり傷つくかもしれない。しかし、その一方で救われてもいる。「愛嬌のある顔をしている」とか「意志的なしっかりした顔をしている」と言ってくれる相手は、「ブス」と言って拒絶する人ではないからだ。
それを言う人は、「あなたの顔は、これこれしかじかの顔」と言って、「一般的な女の子の容姿の基準からはみ出した」とされて「ブス」というゴミ箱に投げ捨てられているものを、「そうではない」として、明確に位置づけているのである。だから、「自分は拒絶されてはいない。なんらかの存在理由はある」と思うことによって、ブスと呼ばれた女の子は、「個性」への道を辿る。つまり、「個性の認定」は「ゆるし」なのである。「ゆるし」によって救われるものなのだから、個性とはそもそも「傷」なのである。(P.211-212)
ああ……納得がいきすぎる……。
ここを読んだ時、島本理生『ナラタージュ』に出てくる「だけど僕は美人すぎる美人が苦手だから。君みたいに感じの良い顔をしているほうが好きだよ」という台詞を思い出しました。「自分は拒絶されてはいない。なんらかの存在理由はある」と思わせてくれる台詞として、これは最強だと思う。
……と書いた後に、『ナラタージュ』は作者が女性だから理想書いてるんだとか現実にそんなこと言う人いないとか言われたら「だから物語で補完してるんだよ!」と返す、というとこまで考えてしまった。被害妄想卑屈根性。