梨木香歩 『丹生都比売』 原生林

丹生都比売

丹生都比売

 次の大君の座を巡って、不穏な空気に包まれている近江の朝廷。皇太弟の大海人皇子一行が吉野にやってきたところから、物語は始まります。主人公は、大海人皇子と鸛野讃良皇女の息子である草壁皇子。主に、この皇子の少年時代が描かれます。
 弓など持つだけで腕がかぶれてしまう体質の草壁皇子は、体が弱いだけでなく、異母兄弟たちが目を輝かせて聞くような、勇敢な戦いの話も、どうしても好きになれない性質でした。

……人はどうして戦うのだろう。私は普段でも人と人がおとしめあい、すさまじい顔をして憎みあうのを見ると本当に恐ろしく、悲しくなる。(P.57)

 でもおとうさまやおかあさまはそういう忠誠を存分に身に受けて、少しも怯む事なくますます光輝いて見える。大津にもそれができるのだ……(P.58)

 担うことを期待されている役割に、自分が適していないことを、草壁皇子は日々感じとっています。父や母、周囲の人々はこんな自分を情けなく、恥ずかしく思っているのだろうと悲しみます。
 吉野で出会った、言葉を発することができない少女・キサは、草壁皇子の心が沈んでいるのを感じとり、落ち着いた気持ちにさせてくれるところがありました。
 タイトルの「丹生都比売」とは、水銀の採れる土地である吉野の、水銀と清かな水の神様のこと。丹生都比売のご加護があると思うからこそ、人々は大海人皇子のもとで団結しているのです。しかし、大海人皇子は、自分たちが吉野に来てから、丹生都比売が顕現なされないことに不安を感じています。その一方で、草壁皇子は、母の孤独な胸の内を、夢に見るようになります。
 淡々とした語りの中から、登場人物たちの気持ちがじんわりと伝わってきます。
 草壁皇子は、怯む事なく立ち向かい、多くの人々を惹きつけるような輝きを放つ生き方は、どうしてもできない性質だったのですね。けれど、抗うことより受け入れることを選んだ(ように思える)彼の静かな生の輝きは、とっても心にしみました。