便乗して自分の本の読み方を見つめ直してみる

 自分が本を読むとき何を重視しているかを語るとなると、どうしても、荻原規子のエッセイ『読む女の子たち』を引用せずにはいられなくなります。

現実世界に少しばかりギャップを感じるタイプである。だから、彼女たちが本やマンガやアニメの架空の世界にひたりながら求めるものは、理想の異性、理想の同性である。
あるいは、異性のさまざまなバラエティ、同性のさまざまなバラエティであることもある。


とにかく、「人」に敏感なのが特徴だ。物語のなかで、だれがどういう性格か、それを自分は好きか嫌いか。主にそれをポイントにして世界へ入りこんでいく・・・・・・。


 彼女たちは、だから、好きになれる人をハントするようにして物語を読むのである。みつければもう、彼や彼女は自分の手の内だ。ごく平凡な女の子でも自分自身でパロディを作るくらいの技を、そなえているのである。

 この文章で語られている「読む女の子たち」のタイプにわたしはかなりのところ当てはまり、「そういう女の子のために書いている」と言い切る荻原規子はわたしにとって特別な作家となったのでした。ただ、隅から隅まで共感できたわけではなく、できないところも多々あって、そのひとつが引用部でした。

 初めてこの文章を読んだ高校生の時、わたしはそんな読み方はしないな、と思ってました。キャラクター重視で本を読むのは、ひどく浮ついたことにも感じられました。たぶん、キャラばかり重視したりせずに作品のテーマをきちんと読み取るのが「高尚な」読み方で、自分にはそれができるんだぞ、とでも思ってたんです(生意気すぎる16歳だ)。

 でも、それから何年か経って、わたしが「好きな本」と「そうでない本」を区分けする基準は、好きなキャラがいるかどうか、好きなモチーフが出てくるかどうか、好きなフレーズ(ここで感想を書くとき、引用したくなるような)があるかどうかだということに気づきました。


 「物語のなかで、だれがどういう性格か、それを自分は好きか嫌いか。主にそれをポイントにして世界へ入りこんでいく」読み方を一度は否定したのですが、結局自分も主に「物語のなかで、だれがどういう性格か、だれとだれがどういう関係性にあるのか、それを自分が好ましいと思えるかどうか」「物語を構成する言葉が好みかどうか、小道具が好みかどうか」をポイントにして本の世界に入っていっている、ということに気づいてしまったのでした。