トラウマ本大歓迎

 件の『嘘つきみーくんと壊れたまーちゃん』は未読なのですがごめんなさい、触発されて「子ども」の「読書」の話について少し書きたくなったので。

 対象が児童、という枠には「教育」がくっついてくるから、どうしても「児童文学」というジャンルはおりこうさんな作品が多いという印象になってしまうのだと思う(そうでないのもたくさん生み出されているのですが)。子どもにそういう「おりこうさん」とは真逆の話を与えてもいいのかどうかという問題については、先にid;yamada5さんが書かれている『地球最後の日 SFセレクション (5)』についてのエントリの中の言葉を引き合いに出したいと思います。

「だれかを好きになった日に読む本」でさえいたいけな少年少女の心に大きな心の傷を残したというのに、さらに怖い話を上積みしていったい何がしたいというのでしょうか。ひょっとして赤木かん子はトラウマ児童文学界の王座をねらっているのか?こういう事はどんどんやってください。子供の心に傷を与えるのは児童文学の重大な使命のひとつですから。

 この意見に全面的に賛成です。

 それにしても、児童書読書日記で何度か「トラウマ本として名高い」と紹介されているアンソロジー、『だれかを好きになった日に読む本』を、小学生の頃スルーしたのが悔しい。

 2003年2月に川島誠の「セカンド・ショット (角川文庫)」、そして4月にこの「The End of the World」が一般書として出版されたことに因縁を感じた人も多いでしょう。そう、これは「電話がなっている」と「The End of the World」の「だれかを好きになった日に読む本 (きょうはこの本読みたいな)」コンビなのです。この本は脳天気なタイトルに似合わず、最後の2編に少年漫画誌では出せない内容の「電話がなっている」、最終核戦争を描いた「The End of the World」が配置されている希有な本です。このため「だれかを好きになった日に読む本 (きょうはこの本読みたいな)」はトラウマ本として広く認知されているようです。

 このシリーズ、他は読んでたんです。『忘れ物をした日に読む本』とか『おかあさんがいない日に読む本』とか。『だれかを好きになった日に読む本』だけは、タイトルからして手にとるのが恥ずかしくて読まなかったんだ……。
10歳の自分の感想を知りたかったです。

 このアンソロジーの編者の中の、一人の先生に話を聞く機会があったのですが、『だれかを好きになった日に読む本』の中では、長崎源之助「観音だんご」・川島誠「電話がなっている」・那須正幹「The End of the World」で三部作のつもりだったそうです。逆説的な作品として。でも、過激すぎるとか衝撃的過ぎるとかで、学校図書館から苦情が来たこともあったとか。

だれかを好きになった日に読む本 (きょうはこの本読みたいな)

だれかを好きになった日に読む本 (きょうはこの本読みたいな)