(前略)すべてを見届け大事に記憶して生きていきたいのに、この世界には私の目の届かないものたちが多すぎた。とりこぼした何かを嘆いているうちに、また新しい何かを見逃してしまう。
 裏を返せばそれは、私がそれだけ世界を小さく見積もっていた、ということだろう。
 年を経るにつれ、私はこの世が取り返しのつかないものやこぼれおちたものばかりで溢れていることを知った。自分の目で見、手で触れ、心に残せるものなどごく限られた一部にすぎないのだ。
 (永遠に〜できない)ものの多さに私があきれはて、くたびれて観念し、ついには姉に何を言われても動じなくなったのは、いつの頃だろう。
 いろいろなものをあきらめた末、ようやく辿りついた永遠の出口。
 私は日々の小さな出来事に一喜一憂し、悩んだり迷ったりをくりかえしながら世界の大きさを知って、もしかしたら大人への入り口に通じているかもしれないその出口へと一歩一歩、近づいていった。(P.9)

 森絵都『永遠の出口』より。


 この本の第一章が、主人公が小学三年生の頃の話なので、つられてその頃のことを思い出しました。


 小学三年生の頃、わたしは「忘れてしまう」ことをものすごく怖がっていました。
 日々の出来事ひとつひとつ、自分が見たこと聞いたこと思ったことひとつひとつ、小さいころの思い出ひとつひとつを、いつか忘れてしまうのではないかと思うと怖くて怖くて仕方がなくて、必死にノートに書きとめていました。
 食事中でも授業中でも「あ、これ書いておかなきゃ」と思うとそわそわ落ち着かなかったりしていました。そのせいで…親が担任の先生に連絡したのか、先生が親に連絡したのか、そこらへんはさだかでないのですが、とにかく先生にも書いていることについていろいろ訊かれたことがありました。「昔のこととか書いてるの?…昔って言うほど生きてないよねえ」みたいなことを苦笑交じりに言われた記憶があります。

 その「何でもかんでも書いておかないと落ち着かない」という状態は、学年が上がって10歳になった頃にふいにおさまりましたが、その「記録癖」みたいなものは今に受け継がれていて、こうして日記を書いたりしているのだろうなあ、と思うのでした。

 両手の指で数えるに足りる年齢の頃、たくさんのものをとりこぼしている気がして不安で、何一つ見逃したくないと懸命に目を見開いていたことを思い出すと、今のわたしはずいぶんずぼらだなあ、と思うのでした。

永遠の出口

永遠の出口