読書の「大義名分」

 わたしは何故か、根っこのところで、自分の読書は「怠け者のすること」「ちょっぴりいけないこと」みたいに思っているらしいのです。小学生の頃から、先生にも友達にも「いつも本読んでてえらいねえ」「すごいねえ」と言われていたにも関わらず。親は、読書を積極的に薦める人たちではなかったけれど…母親なんかは「よくそんなに本読めるねえ」と呆れたように言っていたけれど…「いけないこと」だなんて規制されたことはなかったのです。

 それなのに、体を動かして働く人にくらべて、寝転がって本を読むのが何より好きな自分、というのは…すごく怠け者だ、という気がして。読書は、なんとなく、「いけないこと」をしている気分になるものなのでした。


 もっとも、だからこそ、本を読むのが好きになったのかもしれないけれど。学校や何かから、読書を「勉強に役立つもの」として推奨される前に、どうしてか「読書は、ちょっぴりいけないこと」という意識が芽生えていたから…読書は「勉強」じゃなくて、「いけないことをする」というひそかな楽しみを与えてくれるものだったから、よけいにはまったのかもしれない。

 その一方で、本を読むことに「大義名分」がほしい、と思っていた節もあります。わたしにとっては「ちょっぴりいけないこと」である読書をする、正当な理由、みたいなもの。


 大学に入って、一部の読書には「この本読んでレポート書かなくちゃいけないから」といった大義名分が与えられたのですが…だからといって読書の楽しみが減ったかというと、そうでもないのでした。やっぱり、読むのは楽しい。
 もっとも、わたしは児童文学専攻なので…その専攻の範疇外の本を読むことに関しては、やっぱり「ちょっぴりいけないこと」をしている気分になるのですが(笑)。

 …児童文学専攻、のある大学を選んだのは、「大義名分」がほしかったからかもしれないなあ、と最近考えます。
 堂々と本を読んでいい、大義名分。18歳になって、「児童」じゃなくなったわたしでも、「児童書」がおおっぴらに読める大義名分。