ホモが嫌いな女子もいるんです

戦を放棄した女たちは性欲をどのように処理するか。答え。同性愛という名の異性愛の覗き魔になるのである。少年と少年、青年と青年、少年と青年が愛し合う物語に耽溺する。そこには、裸体がある、肉欲がある、嫉妬がある、羞恥がある。そこには閨房がありながら、自分は閨房に入れない性別にあることで、自分が閨房を獲得するレースの、不戦敗者であることを「見ずにすむ」。

 姫野カオルコ『ツ、イ、ラ、ク』角川文庫 P.305


 いろんなケースがあって、「同性愛という名の異性愛」を楽しむ女性たちみんながみんな「自分が閨房を獲得するレースの不戦敗者」ってことはないと思うのだけれど、引用部を読んだとき、これは的を射た答えの一つなのだろうなあ、とも思ったのです。
 わたしは「レースの不戦敗者」という条件にわりと当てはまっていると思うのですが、不思議なことにどうしても「同性愛という名の異性愛」を楽しむ人間にはなれないのでした。
 フィクションの中の男の子キャラ同士の関係にときめく心性(「あーもーかわいーなーこいつらー」ってな感じの)なら持ち合わせているけれど、それはあくまで「友情」の範囲だった場合なんですね。それを「恋愛」に改変して楽しむジャンルがあることは知っているけれど、彼らの関係が「恋愛」になってしまったとたんに、わたしが彼らに感じている魅力は失せてしまうので、どうしてもそういう風に「書き換える」人の気持ちがわからない。
 わからない、といってもそれを否定しているわけではなくて……フィクションの中の男の子同士の関係を、恋愛に「書き換えたい」という欲求があって、そこから生まれてくる二次創作がたくさんある中で、自分がそういう二次創作を楽しむ人間、「書き換えたい」という欲求を持つ人間になれないのはどうしてだろう、そうなるきっかけならたくさんあったはずなのに、という疑問を持ち続けているんですね。
 好みじゃない、どうしても肌に合わない、と言って片付けてしまえばそれまでだけれど、もう少し突き詰めて考えてみたいのでした。