米澤穂信 『ボトルネック』 新潮社

ボトルネック

ボトルネック

 恋人が死んだ場所に花を手向けに来たリョウ。彼は、眩暈に襲われて崖から転落したはずだったのですが、目覚めた時には見慣れた自分が暮らす街にいました。わけもわからず帰宅すると、見知らぬ女性に出迎えられます。どうやらリョウは、姉が生まれず自分が生まれてきた世界から、姉が生まれて自分が生まれてこなかった世界へと移動してしまったらしいのです。

 間違い探しという言葉に、ぼくは少しひっかかりを覚えた。こちら側とぼくの側とで差があったとしても、別にそれは間違いじゃないだろう。それを間違いと呼ぶのは、ちょっと残酷じゃないか。……もっとも、二つのよく似たものを比べて差を見つけるという行為を「間違い探し」という遊びに見立てるのは無理のある飛躍ではないので、ぼくは黙っていた。(P.33)

 序盤では少しひっかかりを覚える程度だった「間違い探し」という言葉が、物語が進むにつれどんどん重みを増してきます。うわあ。

 事前に「痛い」「痛々しい」「とにかく痛い」という評判をあちこちで目にしていたので心の準備をして読みました。でも、痛いのも救いがないのもわかるんですが、なんて言うか、身につまされない痛さなんですね。中に入ってこないというか。これは相性の問題なのだろうけれど。

 小説を読んでいて、身につまされる「痛い」体験は、女性作家の作品の本筋に直接関わるわけではない瑣末なエピソードで味わうことが多いです。『西の魔女が死んだ』(梨木香歩新潮文庫)の、母親が電話で自分のことを「扱いにくい子」「生きていきにくいタイプの子」と言っているのを聞いてしまう場面とか。『薄紅天女』(荻原規子徳間書店)の、苑上の「どうしてこんなに自分はやさしくないのだろう」と考えるところとか。読み手のわたしは一応女だから、書き手が同性の作品の方にこういう反応を起こしやすいのは当然かなあ、と思うのですが。
 例外が乙一さんだなあ。『Calling you』のニキビを気にしてるエピソードとか、「あの子、小学校のときからあの髪型だけど、全然似合ってないよね」とか、もうぐっさぐっさと刺さる刺さる痛い痛い。