フェチとか萌えとか

 女性には、それぞれ固有のフェチがある。
 私の知り合いでは、三十代の女性がこう言っていた。
「頬杖をついたときに、肘の筋肉のラインが美しい男でないとイヤ」
 その彼女が、四十歳目前で結婚した。相手を肘のラインで選んだかと尋ねたが、そのフェチは我慢したそうである。我慢したから結婚できたそうである。(中略)
 一方、男性のフェチはこういうのとはかなり違う。女性の身体のある場所にフェチがあるというより、ある行為とか存在の醸し出す何かがフェチというケースが多いのである。身体フェチという場合でもたとえば巨乳フェチの場合、それは母性の大海に身を委ねる赤ん坊に返りたいという「物語」が必要なのではないか。巨乳だけがそこにあればいいというのではなく、その所有者との関係性が重要なのではないのだろうか(まあ、単なる物質でいいという人もいるだろうが)。
 行為フェチで言えば、ある男の子は「自分が『風邪ひいたかもしれない』と言ったら、どれどれと言っておでこに手を当てて熱があるかどうか測ってくれること」と言っていた。「ほら」と体温計を渡されると、そういう神経の細やかでない行為は許せないそうである*1

 萌えポイント。それは、「くぅぅぅ、そういうシチュエーション(もしくはキャラ、アイテム)に弱いのよ〜」という部分のことだ。「萌え」という言葉はあまり好きではないのだが、「くぅ(中略)弱いのよ〜」を簡略に表す他の言葉を思いつかないのでしかたがない。
(中略)女性はたいがい、ストーリーを愛する傾向にあるようだ。たとえば、遊牧民の長の花嫁候補として砂漠の王宮に軟禁され、最初は反発していたが、彼の孤独な心に触れるうちにいつしか恋に落ちてしまうとか(ちょうどそういうハーレクイン小説を読んだ)、『ロミオとジュリエット』みたいに、惹かれあっているのに二人のあいだに障害があってなかなか結ばれないとか、具体的な「流れ(シチュエーション)」にときめく。
 それに対して、どちらかというと男性は、「猫耳のついたメイド服姿の女の子」といった感じに、キャラクター先行型なような気がする(オタク的誇張のある例で恐縮ですが)。「線」を愛しがちな女性と、「点」を愛しがちな男性とも言い換えられようか。
 もちろん、どういうところに「萌え」を感じるか、というのは結局のところ性別ではなく個人の好みの問題ではある。だが、なんとなく大まかな傾向として、性別によって「線」に反応するか「点」に反応するかは分けられる気がする。

 前者は『結婚の条件』(小倉千加子朝日文庫・P186〜187)、後者は『夢のような幸福』(三浦しをん新潮文庫・P18〜19)からの引用です。
 去年、『夢のような幸福』を図書館で借りて読んだ後に、授業に出てきた『結婚の条件』を読みました。この二冊の「フェチ」「萌え」についての男女別の傾向の分析の違いがおもしろかたので、私の中では二冊セットで印象に残っていたのでした。
 今日、文庫化された『夢のような幸福』を買った直後に、twitterでブレザー談義(?)を目にしたらそのことを思い出したので、書き出してみました。


 書きながらぼんやり考えてみたけど、自分はこの部位が好きとかこういう服装をしてるとときめくとか、そういうのはぱっと思いつかないなー。あるけど気づいてないだけなのかなあ。……あ、箏弾いてる男の子はかっこよく見えてしまうけど(それなんか違うよたぶん)。
 フィクションの中で、どういう物語が好きか、関係性が好きかはわりと答えられるけど。ええと、幼い女の子が主君、暴君で、大の男がそれに振り回されてるとか(「主君」だと十二国記の珠晶。「暴君」だと戯言シリーズの玖渚かな)。好きすぎて愛しすぎて相手殺したくなっちゃったり狂っちゃったりする女の子・女性が出てくるとか(新井素子あなたにここにいて欲しい』他多数)。って何語ってるんでしょう。

*1:え、いいじゃん体温計渡してくれるなら、と思ってしまうわたしはダメなんだろか