夏目漱石 『門』 新潮文庫

門 (新潮文庫)

門 (新潮文庫)

「どうも字と云うものは不思議だよ」と始めて細君の顔を見た。
「何故」
「何故って、幾何容易い字でも、こりゃ変だと思って疑ぐり出すと分らなくなる。この間も今日の今の字で大変迷った。紙の上へちゃんと書いて見て、じっと眺めていると、何だか違った様な気がする。仕舞には見れば見る程今らしくなくなって来る。――御前そんな事を経験した事はないかい」(P.7-8)

彼等の命は、いつの間にか互の底にまで喰い入った。二人は世間から見れば依然として二人であった。けれども互から云えば、道義上切り離す事の出来ない一つの有機体になった。二人の精神を組み立てる神経系は、最後の繊維に至るまで、互に抱き合って出来上っていた。彼等は大きな水盤の表に滴たった二点の油の様なものであった。水を弾いて二つが一所に集まったと云うよりも、水に弾かれた勢で、丸く寄り添った結果、離れる事が出来なくなったと評する方が適当であった。(P.186)